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温故知新

-歴史は繰り返す-の実現を

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■風雪50年の花園ラグビー場

●資料ラグビーマガジン1980年1月号

今回は関西ラグビー、高校ラグビーの聖地「花園ラグビー場」の歴史をお届けします。
「あるのが当然」のように思っている花園ですが、この文章を読むと、
近畿日本鉄道(近鉄)への感謝を忘れてはいけないことが改めて理解されます。



花園ラグビー場の誕生

 明治32年わが国に初めて慶大のラグビーチームが誕生した。つづいて関西に明治43年第三高等学校のチームが生まれたのをきっかけに、同大、京都一中、同志社中学、京一商のチームの創部が続いた。
 そして大正7年11月早大に、11年に東大、12年に明大と、関東大学もようやくラグビー部が設立され、揺籃時代を迎えるわけだが、これら競技を行うラグビー専用のグラウンドは皆無であった。
 関東では大正13年8月、明治神宮外苑に鉄筋コンクリートの大スタンドを持つ大競技場が完成し、その年の秋から神宮競技大会が開催されラグビーもこれに参加した。
 この競技場、秋の神宮大会が終わると開放していたので、ラグビー協会は冬季使用を交渉、幸いに許可をとりつけ、第二次世界大戦が始まるまで約18年間使用し、関東ラグビーのメッカとなっていた。
 なお、最初に使用したのは、大正15年11月23日の早慶戦であった。
 昭和3年2月12日、甲子園野球場で関東と西部の協会が選んだ代表によって、秩父宮殿下よりいただいた優勝杯を争奪する第1回の東西対抗が行われた。この対抗戦は日本選手権が確立されてから、昭和42年に廃止された。
 この日、秩父宮殿下のご台臨があり、そのとき、ラグビー競技をはじめて観た阪神の島徳蔵社長は、殿下がこのようにご愛好になっているラグビーの歴史的な試合に畑違いの野球場を充当したことに恐懼し、大至急ラグビー専用競技場を阪神沿線に造ることを決意し、野球場の隣りに陸上競技場を兼ねた総合グラウンドをこの年竣工させた。
 フィールドの中は立派な芝生でラグビーには最適で、昭和4年1月の第11回全国中等学校大会から使用され、この大会は、昭和18年の第25回大会まで続いたが戦争のため中止され、最後は米軍のモータープール(*駐車場)に転用され、後にとりはらわれて6階建ての公団住宅が数十棟建ち並び、戦前中等学校ラガーメンのメッカ甲子園は、いまは跡かたもない。
 このあと、中等学校大会は昭和22年の26回大会より西宮球技場となる。
 ところで、話は戻るが、第1回東西対抗ご台臨のため西下された秩父宮殿下は試合の前日の2月11日、つまり紀元節の日、橿原神宮に御参拝途中、大軌電車(現近鉄)にお乗りになる機会があったが、そのとき陪乗の大軌専務の種田(おいだ)虎雄氏らと御歓談のなかで「沿線にはずいぶん空地が多いが、この辺に今台頭しつつあるラグビー専用競技場を作ったらどうか、乗客も増えて会社も利益を得るのではなかろうか」という意味のことを、ご自分のご感想としてお洩らしになった。
 大軌としては、殿下のおことばを軽視したのではなかったが、なにぶんにも多額に費用がかかることでもあり、なにかと協議を重ねていたようであったが、間もなく2度目の御乗車があって、このときまた、グラウンド建設の話をお持ち出しになった殿下は「まだグラウンドはできないのか?」と俗にいうハッパをおかけになった。
 このご催促のおことばに金森又一郎社長はいたく恐懼するとともに、こんなにまで殿下がラグビーに熱心であるなら、損得なんかどうでもいい、すぐにもお思召に添わなくてはと決意し、昭和3年12月10日、急遽重役会を開いてラグビー場建設を決議、これを翌日の新聞紙上に発表した。 このような経緯をみても、花園ラグビー場の生みの親は秩父宮殿下である。大軌の東大OBの沢田健一ほか6名の競技場建設専門委員会を西部協会内に設けて、関東の田辺、香山の各氏らと連絡をとりつつ、基本方針をたてていった。
 近鉄にとって、ラグビー場建設は日本でもなにぶんにも初めてのことなので、英国のトウィッケナム・ラグビー場を参考にして、長さ146m、幅68.6m、周囲各9m幅の余地を設け、縦横100分の1のこう配をつくって水はけをよくし、全面に高麗芝を植えることにした。
 グラウンドは、基盤から全部掘りかえして割石を入れ、川砂を盛り、芝生の生育に十分留意した。
 スタンドは、西側に鉄筋コンクリート、高さ9m、幅15m、大鉄傘つきの堂々たるメインスタンドを設け、その内部には、役員室、事務室、選手控室、および集会場のほか、一般食堂、休憩室を設けることにした。
 さらに東南北の三方には、大時計台を中心に無蓋の鉄骨スタンドを設け、これをあわせると1万2千人を収容できるもので、これらの設計は京大工学部講師の中尾保氏にお願いし、建設費50万円の予算で、株式会社清水組が請負い、昭和4年2月に着工し、その年の11月初旬に竣工したのである。


はかり知れない半世紀の功績
 花園ラグビー場建設にあたって、当時西部協会建設専門委員の一員であった巌栄一氏(天王寺・三高・京大・現関西ラグビー協会名誉会長)に建設前後の模様を語ってもらった。
 ご承知のように秩父宮様はオックスフォード大学に留学されておられたので、非常なラグビーファンで、のちに日本ラグビー協会の名誉総裁もされましたぐらいで、ラグビーの良き理解者でした。
 そんなわけで香山さんからグラウンドの話等が伝わっていたものと思います。 それで大軌に御乗車されたとき、グラウンドの話が出たようです。
 昭和3年の3月か4月ごろ、当時大軌の専務、のちに社長になられた種田虎男さんから西部協会に、ラグビー場建設のことで、ご相談したいという話がありました。そこで協会は、当時副会長だった杉本貞一と理事長の久富達夫さんと私の3人で大軌に出かけました。
 大軌からは種田さんと沢田健一さんともう1人年配の方、多分大田さんだったと思いますが、この3方が出席されました。このとき、グラウンドを作りたいという話が出て、協会にひとつご尽力願いたいということで、協会としては大喜びで全面的にご協力しますということでした。
 私はすぐ方眼紙に図面を書いて大軌に出しました。同時に私はラグビーに関する原書を20冊ちかく持っていましたが、その中にトウィッケナムの写真がありましたので、それをお目にかけました。
 それから話は具体的にどんどん進み、フィールド関係はさきに南甲子園総合競技場をてがけたことのある林英夫さん、観覧席その他は中尾保さんが設計を受け持ち、大軌の方と一緒に設計にあたってと聞いています。その後、私たちは大軌と何回となく会合を持ちました。
 初めの設計のときは、スタンドが非常にゆるやかな傾斜でしたが、観戦するには高い位置が良いのだということで、うんと傾斜を縮めてほしいと私は主張しましたが、中をとって45度ぐらいの傾斜になりました。
 そして、工事にとりかかり、竣工したのが11月でした。22日の開設記念試合の前日、私はグラウンドを見にいき、25ヤードの旗など、タッチラインから近すぎるからもう少し離すようにとか、旗竿は短いと危険なので、もう少し背の高いものにしてほしいといったようなことをいろいろと注文を出しました。
 グラウンドは芝がよくついていましてね。よほどあれは密植されていたのでしょう、本当にふわふわとして、まるで布団のなかを走っているようでした。むしろ、ちょっと走りにくい感じでした。砂を入れ替えて深く植えたのでしょうね。
 当時、芝のグラウンドは、神戸の東遊園地(KRC)と横浜の本牧(YCAC)の2つしかありませんでした。どちらも外人のグラウンドでした。花園は芝のグラウンドとしては日本で三番目ですが、芝そのものは花園が断然良かった。本牧の方は柔らかかったが、東遊園地の方は使いすぎて固かったようです。
 花園が出来たころ、ラガーメンたちはこんなところなら怪我の心配はないと皆喜んでタックルしたものです。プレースキックも芝が良くボールを支えてくれるので、よくはいりました。また、花園でドロップゴールを入れたことがありますが、とにかくあそこは蹴りやすかったですね。
 11月22日のグラウンド開きは、全日本社会人と学生選抜の試合が華やかに行われ、私は笛を吹かせてもらいました。当時京都大学の全盛時代だったので、学生の半分以上が京大生のようでした。私たちは社会人が勝つだろうと思ってましたら、学生が24-11で勝ちました。
 阪神電鉄の前の社長で、現在の会長の野田忠次郎さん(昭5京大)も学生軍の現在の右フランカーで出場していました。身体は小さかったが、非常なファイトの持ち主で、最初のトライをやってのけました。
 実は翌年、学生がカナダ遠征することになっていて、この遠征の予選を兼ねていました。このときの試合に出ぬ人で選ばれた人のいましたが、大体この人たちが参加しました。
 観衆は約1万人という盛況でした。戦前、花園の大試合には観衆がよくはいりました。戦後の方が少ないようです。あの近辺の人はラグビー通が多く、野次も当を得た痛烈なもので選手たちはやりにくかったようです。
 私は京大を出て日本電力に入社し、そこでチームを作りました。一番最初が近鉄、二番目が慶應黄金時代の人たちによって作られた大同電力、三番目が私たちのチームで、昭和2年のことです。近鉄の創部は大正の末期でした。昭和3年になると関西にどんどんチームができてきました。大毎、阪急、阪神だとか、たくさんできました。こんな実業団の試合にも花園を心よく使わせていただきました。
 当時のメインスタンドは現在と同じですが、屋根がありました。戦争で鉄材を供出するため屋根をとりはずしてしまいました。向いのスタンドは鉄骨で組み木製の腰かけでしたが、この鉄骨も供出してしまいました。
 戦後、協会から何度となく屋根をつけてもらえないだろうかとお願いしましたが、何分にも巨額の経費を必要とするのでなかなか困難のようで。
 とにかく、この花園ラグビー場の建設は、当時の近鉄(*大軌)幹部の方の大英断によるものです。現在あれだけの広大な土地を購入しようとしたら大変なことです。
 ラグビー場の経営というものは、企業としては決してプラスになるものではないが、50年間もラグビー界のために管理運営していただいて、われわれラグビー関係者はもちろん愛好者も含めて、ただただ近鉄の厚意に感謝するのみです。
 このグラウンドは近鉄のものですが、近鉄チームといえども練習のときは、第2グラウンドで行なうというように非常に大事にしています。花園は近鉄の人たちにとっては大変な誇りなのです。
 外国チームが来日すると皆ほめてくれます。ちかごろは周辺に住宅が多く建っていますが、当時はスタンド正面に生駒連山がくっきりみえて、それは良い環境でした。英国あたりのチームの人が来られても、立派なグラウンドだと賞めてくれました。
 戦前の花園は関東・関西大学の定期戦、社会人、外国チーム、それに正月の高専大会と幾多の好試合が展開されました。
 高専大会は1回から4回までは京大グラウンドで行なわれ、花園グラウンド完成の翌年、つまり第5回から花園会場となり、19、20年(*昭和)は戦争で中止されましたが22年の18回大会から復活され、21回大会(昭24)まで続きましたが、学制改革のため、全国地区対抗大会に移行され、会場は名古屋へと変わりました。
 しかし、とにかく本当に50年という長い間、ラグビーのために損得ぬきで維持管理されてきたことは、ただただ感謝あるのみです。


戦後の混乱から飛躍へ
 戦時中の18、19年はラグビーの試合も不可能となり、陸軍の自動車隊駐屯していたようである。またグライダーの訓練場としても使用されたことがある。
 昭和20年10月4日、米軍第98師団に接収され、アメリカン・フットボールに使用される程度だった。昭和22年、1月3、5、8日は特に米軍の許可を得て全国高等専門大会を復活し、昭和24年6月3日、米軍接収解除後グラウンドの整備が行なわれ、ようやく戦前の姿にもどった。
 昭和27年にはラグビー界50年来の夢が実現して、英国からオックスフォード大学チームが来日し、10月1日花園ラグビー場で全日本と対戦、35-0でオ軍が大勝した。さらに28年9月ケンブリッジ大、31年3月オーストラリア学生選抜、33年3月オールブラックスコルツ、34年オ大・ケ大連合軍、36年3月カナダと、続々外国チームが来日し花園ラグビー場で本場のラグビーを披露した。
 昭和24年に始まった全国社会人大会も31年からは花園と秩父宮ラグビー場で隔年ごとに行なわれることになり、また大正7年以来の歴史をもつ全国高等学校ラグビー大会も、昭和38年の第42回大会から花園ラグビー場で行なわれるようになり、こんにちにいたり、いまや花園は高校ラガーメンのメッカとなっている。


メッカにふさわしく大改修
 花園ラグビー場は、昭和4年11月、秩父宮殿下ご夫妻をお迎えして開場、いらい日本ラグビー界に不滅の歴史を刻み、今年でちょうど50年を迎えるが、これを機に花園のイメージアップを図るため、老朽化の著しいメインスタンドの改装と、バックスタンドの新設、および周辺の整備を行なうことにした。
 メインスタンドはロイヤルボックスの改良、本部席の新聞テレビ報道関係者席の拡大とテレビカメラの設置箇所の増設、さらに上屋の改修、外壁面の塗装、スタンド下のロッカー室、便所の拡大や模様替えなどを行なう。
 バックスタンドは土盛だけだったところに、コンクリートを打ち、2500人を収容できる9段のスタンドを新設し、またスコアボードは両スタンドからよく見える北側ゴールポスト後方に移し、縦6.6m、横15mの最新型の球面反転板式表示器を設置することにした。これには、スコアのほか、両軍のメンバー表示もできるうえ、斬新なラグビーボール型時計もついている。
 周辺の整備は、東花園駅前にモニュメントとしてラグビー場の広告塔を建てるほか、植樹をはじめ、門扉の飾り付けなどを行なうことになっている。
 これらに要する費用は約3億円で、11月末竣工の予定となっている。この改装で、収容人員も最大2万人まで可能となり、また諸設備も完備して名実ともにラグビーのメッカにふさわしい装いとなる。
 企業としては採算のとれぬ「花園」の運営であったが、ラグビー発展のために草創時代から今日まで損得を度外視して維持管理してきた近鉄に対し、心から感謝の意を表する次第である。
 さらに50周年を機してスタンドを改修し一新したが、50年来「花園」によって育てられてきたファンは、近鉄の厚意に報いるためにも、日本のラグビーがさらに一層の飛躍をとげることを切に願う次第である。
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